それからしばらく、一階の居間でくつろいでいた。
トルタは自分の部屋で時間を潰しているそうだが、ひょっとしたらクリスの様子を見ているかもしれない。
時刻はすでに、夜に近づいている。そろそろ私達の夕食について考えなければならない時間になっていた。
メインディッシュはお昼に人数分以上は作ったから、クリスの分を切り分けておけば大丈夫だろう。
問題は、いつ食べるかだったが。
そのまま、椅子に背をもたらかけさせ、トルタが戻ってこないかと待っていたが、一向に降りくる様子もない。
もう一度上るのはきつそうだったが、そろそろそうも言ってられなくなった。
二階に上がり、やはりもう一度息を整える。辺りには物音すらしなかったから、トルタも部屋で大人しくしているのだろうか。
クリスが寝ていたときのために、ドアに耳をつける。
すると、小さな声で子守歌を歌っているのが聞こえた。
昔から私が歌って聞かせた歌だ。おそらくトルタが歌っているのだろう。
そのままにしておきたかったが、話しかけないわけにもいかない。
なるべく音を立てないようにドアを開けると、その歌声はぴたりと止んだ。
「……あら?」
クリスはベッドに寝たまま、困ったような顔でこちらを見ていた。
その脇には椅子が置いてあり、トルタが座っていた。 いや、座っていたのだろう。
今は上半身をベッドに投げだし、クリスの足下の辺りで静かに寝息を立てている。
歌が聞こえたように思えたのは、気のせいだったんだろうか。
「起きたらこんな状態でした」
来たときよりも、幾分かは元気そうな声でクリスが答える。
「……ええ、だいぶ寝られた?」
「はい。ありがとうございます」
いつもの礼儀正しい口調に戻っている。それが少し寂しくはあったが、同時に安心でもあった。
「熱は? まだ身体は熱い?」
「もう大丈夫だと思います。もう外も暗くなっていますから、もう少ししたら帰ります」
「泊まっていく? 朝に帰れば、学校にも間に合うでしょう」
「ごめんなさい。今日は日曜日なので」
それ以上語ろうとせず、クリスは窓の外を向いた。
部屋は充分暖かかったので、新しい空気を入れるために窓を開ける。
夕方のさわやかな風が入ってきて、部屋の中の空気を一掃する。
「……気持ちいいですね」
「ええ」
それだけ答えてしばらく外を眺めていると、クリスが私と同じ方向を見つめながら懐かしそうな声をあげた。
「これは……なんの匂いですか? なんだか、すごく懐かしい気がするんですけど」
「ん? 匂い?」
窓辺にはハーブを植えた鉢植えが並んでいて、その香りがクリスに届いたみたいだった。
懐かしいと言うくらいだから、昔から家にあったものだろう。
その中でも香りの強いものを選んで、その一つを手折った。
「これかい? これはローズマリー。お料理にも使えるし、お茶にもいいんだよ」
クリスの鼻もとにその葉を近づけると、クリスはこれだと言って頷き、目を細めた。
「ああ、これです。ずっと昔……ニンナさんの部屋で同じような匂いをかいだことがあります」
「ずっと育ててるからね。前のは全て向こうの家に残してあるけど、よく使う物だからこっちでもね」
ローズマリーは主に、集中力を増進すると言われているけど、確か風邪にも効いたはずだ。
「ならこれで、ハーブティーを作ってあげよう。風邪にもいいんだよ」
「ハーブティーですか。そう言えば、昔飲ませてもらった気がします」
「クリスは苦いって言って、最後まで飲めなかったんだよ……覚えてるかい?」
「……覚えてます。今はもう、大丈夫ですよ」
強がるようにそう言って、クリスは視線を逸らした。その先では、まだトルタが寝息を立てて眠っている。
「トルタは、いつ頃眠ったんだい?」
「わかりません。食べてからすぐに寝たんですが、起きたらもう、こんな状態でした」
「そうかい。なんだかんだ言い争っても、仲がいいんだね」
「……幼なじみですから」
照れるわけでもなく、かといって苦々しげでもなく、寂しそうに彼は言った。
今の状態を考えれば、それも当然かもしれない。
クリスはしばらく黙っていたが、その沈黙に耐えられなくなったのか、私の方を向いて首を何度か横に振った。
「……アルのことかい?」
核心に触れるように、そっと訊ねる。
クリスは鈍い感性の持ち主ではなかったから、トルタの気持ちには気づいているだろう。
でも、それに応えることはできないでいる。
「……はい」
しばらくして、短く、それだけにはっきりとクリスは答えた。その瞬間、トルタの身体が、少し動いた。
クリスはそれ以上答えようとはしなかった。私も無理には聞き出したりはしない。
ただ優しく、寝ているトルタに声をかけた。
「さ、トルタ。そろそろ起きなさい。私達もなにか食べないと」
「……ん。え? ……ああ、おばあちゃん」
眠たげな声とともにトルタは起きあがり、辺りを見回した。
「おはよう、トルタ」
クリスが、少し皮肉っぽくトルタに話しかける。トルタも負けじと応戦する。
「なによ。寂しいから側にいてって言ったのは、クリスじゃない」
「……は?」
「寝言で言ってたの。覚えてないでしょうけどね」
「……嘘だ」
「こんな嘘付いてどうするのよ。仕方がないからここで本読んでたら、眠くなっちゃっただけじゃない」
「……絶対に嘘だって」
トルタは勝ち誇ったように胸を反らし、クリスの言葉を否定した。
おそらく、トルタの言っていることは本当だろう。口から出任せを言ったのなら、トルタならもっとむきになって反論するはずだ。
クリスもそれがわかったのか、それ以上の反論はせずに、小さな声でなにか呟いてそっぽを向いた。
「はいはい。じゃあ私とおばあちゃんはご飯食べるけど、クリスのほうは食欲は?」
「……ないよ」
「どうする? もう少し眠る?」
「いや、もう大丈夫。晩ご飯は残念だけど、今日はもう帰らないと」
クリスは起きあがって、首を何度か横に振った。調子も悪くなさそうだ。
「熱は? ……うん、だいぶ下がったかな」
トルタがクリスの額に手をあてると、いやがる素振りも見せずにクリスは従った。
こういうところが、微妙だった。 普通の間柄なら照れて嫌がるところだろう。
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