三人で下まで降りると、すぐにクリスは持ってきたフォルテールを肩に掛け、帰る準備を始めた。
「あれ? そんなにすぐに帰るの?」
「……日曜日だからね」
クリスはトルタに短く答え、服の襟を正した。
「トルタ。キッチンにラザニアの切り分けたのがあるから、持ってきて」
「あ、はい。クリス、もうちょっと待ってて」
すでにもう一度焼き、切り分けて包んで置いたクリスの分を取りに行かせる。
最後にクリスはもう一度私に近寄って、この手を握った。
「今日はありがとうございました。また来ます」
いつもなら、帰る頃にはもう少しくだけた口調になっているはずだったが、今日は食事もしいていないから、仕方がないか。
「ああ。またいつでも、好きなときに来なさい」
「じゃ、また明日ね。学校、来れそうでしょ?」
「うん。大丈夫だと思う。また明日」
もうだいぶ良いのか、クリスは来た時とは違ってはきはきとそう答え、足取りもしっかりした様子で帰っていった。
その頃には、いつも夕食をとっている時間になっていたので、トルタに用意をするようにお願いする。二階まで何度か上り下りをしたせいで、足が少し痛む。普段なら料理を運んだりするのは二人でやるのだが。
「あ、おばあちゃんは休んでて。今日は私が全部やるから」
トルタは優しい、良い子だった。
「はい、これで全部終わり。お腹空いたでしょ? 早く食べよ」
トルタは明るく言って、向かいの席に座る。食前の祈りを済ませ、少し寂しい食卓を囲む。いつもと変わらない風景だったが、クリスのいた空気がまだ残っているせいか、少しもの悲しい。
「今日は残念だったね。クリスも、せっかくフォルテールまで持ってきたのに」
「子供は、元気な姿を見せてくれるのが一番。それに話もできたから、別にそれで良いじゃない」
「まあ、おばあちゃんがそう言うなら良いんだけどね。でもね、本当はおばあちゃんのいる前で話もしたかったんだ」
「話?」
「卒業演奏のこと。前にも話さなかったっけ?」
「パートナーがどうの言ってた?」
「そう。来年の一月が本番なんだけど、まだ決まってないみたいなの」
トルタが言っているのは、ピオーヴァ音楽学院の卒業試験ともなっている演奏会のことだった。発表会という名ではあったが、学院の卒業生など、一線で活躍している音楽家達もたくさん観に来て、見込みのありそうな生徒ならその場でスカウトされることもあるらしい。それくらいにレベルの高い演奏会だと聞いている。
そしてクリスのフォルテール科では、単独での演奏は許されず、歌との協演が必須条件らしい。声楽科はソロでも構わないので、そのままトルタに跳ね返ってくる話でもない。
ただトルタは、純粋にクリスの心配をしているのだろう。
「まだあと半年以上もあるからって、真面目に聞いてくれないのよ。おばあちゃんが一緒になって言ってくれれば、少しは考えると思ったんだけど」
トルタはあきれたようにそう言い、同じくらい心配するように、深いため息をついた。
あまり良い質問とは思えなかったけど、聞かずにはいられなかった。
「トルタじゃ……駄目なのかい?」
「……私は、向いてないから」
資質でいえば、特に問題はないだろう。トルタの歌声を聞く限り、それは間違いない。演奏する方は駄目だったが、その分私はたくさんの音楽を聴いてきた。孫だからと言って、甘い評価をしているつもりもない。
トルタの言っているのは、そういうことではなかった。
「アルのことかい?」
「……うん」
私はもう一度、同じ質問を繰り返す。そしてトルタの答えも、変わらなかった。
食事が終わり、洗い物を全て片づけた後にトルタは部屋へと戻っていった。
私は一人居間に残って、三人の子供達のことを考えていた。
アルとトルタ……そしてクリス。そのうちの二人がこの地に来てから、もう二年以上が経つ。私への敬語も、トルタへの態度も、全ては彼が変わろうとしているせいなのかもしれない。あるいは、これは私の推測でしかないのだけど、変わらないようにしているせいなのかとも考えたことがあった。
過ぎ去った日に戻ってしまうから。そして、お互いの距離が近くなってしまうから。
――そんなことを考えていると、階段を駆け下りてくる音がする。
「あ、おばあちゃん、まだ起きてたんだね。私はもう寝るから、おやすみなさい」
「ああ……おやすみ」
それだけ伝えて、トルタはまた自分の部屋へと戻っていく。優しい子だ。
あの子達三人の、全てが幸せになれる結末などないのかもしれない。それでも祈らずにいられなかった。
どうか子供達が、幸せでありますようにと。
End
著:Q'tron
|