「待たせたな」
ドアを開けると、予想していた通り、彼女はすでに来ていた。
やることがなかったのか、ピアノの前で、発声練習でもしていたらしい。
部屋に入るなり、美しい歌声が耳に届いた。
「あ、いえ。時間より少し早く来てしまっただけですから。
それと、勝手にピアノに触ってしまってごめんなさい」
「気にしなくて良い。それより、なにか一曲歌ってみないか?きちんと聞いてみたいんだが」
「え? いいんですか?」
「こちらがお願いしてるんだが」
苦笑しながら、備え付けのフォルテールの前に座る。
ドアを開けた瞬間に、声をこぼれ聴いただけだが、それでもきちんと聴いてみたいと思った。
音楽家としての血が、私の中にもまだ残っているのだろうか。
「発声は済んでいるな?」
「はい、朝のレッスンで済ませています。曲はなににしますか?」
物怖じしない、良い態度だ。
歌うと決まった瞬間に、講師としてではなく、音楽家として私を見るようになった。
礼儀正しいだけの生徒ではなく、思ったより芯も強そうだ。
「曲はなににする?楽譜を用意している時間はなさそうだから、そらで歌える曲から選んでくれるか?」
「なんでも良いですよ。フォルテールとのアンサンブルで有名な曲でしたら、だいたい歌えますから」
「クリスにも聞かせてやりたい言葉だな」
彼女はにっこりと微笑んで、私の目を見た。
意地悪をするつもりもなかったので、記憶の中から有名な曲を選び、初めの一小節を弾き始めた。
フォルテールの余韻と、歌声の余韻が程良く混ざり合い、空気に溶けるようにゆっくりと消えていった。
歌い終わった彼女が満足げな顔で、ありがとうございます、と言った。
「いや、たいしたものだな」
「いえ」
自信にあふれた声だった。その否定の言葉はあきらかに謙遜だったが、とても自然で、嫌味がない。
そしてその歌声は、今まで聞いた他人の評価と、寸分違わぬものだった。 |