初めてファルシータ・フォーセットに出会ってから、三カ月以上が過ぎていた。
出会ってすぐに、声楽科の講師や、顔見知りの講師、彼女のことを知る生徒などに話を聞いてみたこともあった。
  皆一様に絶賛するばかりで、あまり当てにはなりそうもなかったが、
そういう評価をもらえるということだけでも、聞いた価値はあったと思う。
 礼儀正しく、才能もあり、努力もしている。
非の打ち所が無いところがかわいげがないが、嫌味も感じさせないほど、さわやかでもあった。
かくいう私も、話してみて気に入っていたので、そんな風に地道に聞いてもみたものだ。
クリスのパートナーとしては、出来すぎな気もする。
 あれから三ヶ月も音沙汰がなく、さすがにそのときのことも忘れかけていた。
それが今朝、彼女を私に紹介した当人である声楽科の講師から、
今日話を伺いに行くかもしれないと聞き、ふと思い出したのだ。
そしてついでに、来るのなら午後の授業の前にでも、と彼に伝言を頼んでおいた。


 卒業演奏の本番が一月の半ばで、暦ももうすぐ、十二月に入ろうとしている。
残された時間があまりないというのに、当のクリスはまだお気楽に考えているようだ。
彼女の話を聞く機会を設けておくのは、クリスのためにもなるだろう。


 街に出て急いで昼食を終え、昼休みの時間がまだ半分以上も残っている状態で校舎に戻る。
レッスン室の鍵は開けておいたから、もうすでに彼女なら待っている頃かもしれない。
 第一校舎の廊下を急いで歩いていると、前から私の師でもある人物が歩いてくるのが見えた。
急いではいたが、礼を欠かすわけにもいかず、私は脇にずれ、立ち止まって彼がこちらに気づくのを待った。



「コーデルか」
「こんにちは。グラーヴェ先生」



 威厳すら漂わせる重々しい口調で、彼は私の方を一瞥した。
彼は名だたる貴族でもあり、かつこの世界では有名すぎる音楽家である。
身に付いた威厳というものは、こんな何気ないところまで出てしまうのだと、妙な感心をいつも覚える。
 かつてはここの講師も務め、私の担当でもあった。
今はもう、生徒に直接教えることはないが、年に何回かはピオーヴァ学院長自らの願いで、特別講師として招かれている。
それほどまでに、この世界では力を持った人物だった



「また、特別講師として呼ばれたのですか?」
「ああ。学院長の奴が、またお願いすると言ってきたのでな」
「参考になりますので、ご見学させていただく機会がございましたら、そのときはよろしくお願いします」



 儀礼的になりすぎないように、かといって、非礼になってはいけない。
上に立つ立場になったとしても、やはり人間関係は難しい。



「いや、君なら大丈夫だろう。フォルテールの才能はなかったようだが、教える方の才能は、私よりもありそうだ。噂は聞いている。正しい道に進んだようだな」
「……いえ。私などまだまだです」



 彼に才能がないと言い切られてしまったら、返す言葉もない。
悔しい、という気持も起きない。例え口が悪くとも、彼が偉大な音楽家であることには間違いなかった。
それに、私もあまり人のことは言えはしないだろう。
グラーヴェ先生を毛嫌いしている昔からの知り合いには、口の悪さが移ったなどと言われる始末だ。



「では、失礼する。なにかと忙しい身分でな」
「はい……あ、ひとつ、よろしいですか?」
「ん? なんだ?」
「ファルシータ・フォーセットという生徒をご存じですか?」



 彼の専攻はフォルテールであったが、こと音楽に関しては幅広く手を広げている。
名前だけでも知ってはいないかと軽く訊ねてみると、意外にもその反応は良かった。



「ん? ああ、もちろん知っている。彼女は良い」
「は……はあ」
「なにかあったのかね?」
「いえ……そろそろ卒業演奏の時期なので」
「ああ、担当の生徒と組ませたいのか。気持ちは分かる。彼女がまだ一年だったなら、是非組ませたい者がいたんだが」
「そうでしたか。ありがとうございます」



 忙しい身分だったのは知っていたから、これ以上の話は無理だろうと判断する。
深く一礼をして、彼が歩いていくのを見送った。
 しかし……ここでもまた、絶賛か。彼女はよほど、素晴らしい人物らしい。
これならクリスの心配よりも、彼女の方を心配した方がいいかもしれない。
彼女にとってプラスになればいいんだが。
 グラーヴェ先生を見送り、待たせているファルシータに会いにレッスン室へ向かう。
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