年に数回ではあったが、クリスはこうして遊びに来てくれて、いつもフォルテールを弾いてくれる。だんだん上手くなっていく課程を聴けるようで、私はいつもそれを楽しみにしていたんだけど、こういう場合なら話は別だ。あくまで元気な顔を見せてくれるついでなのであって、無理に弾かせるつもりはない。
二階にあるお客様用の寝室にクリスを案内しようとすると、トルタが突然、後のことは全てやると言い出した。
「おばあちゃんは休んでて。シーツ替えたりするのは結構大変だから」
「……わかったよ。じゃあ任せるから、用意が済んだら呼んで」
「は〜い」
元気の良い返事を残して、トルタは二階へとあがっていった。建物自体が古いとはいえ、頑丈な作りの一戸建ては、私にとっては過ぎた物件のような気もする。一階は居間やキッチン、そして私の寝室など。二階にはトルタの部屋やこれからクリスの寝る客用の寝室がなどあり、充分な広さといえた。
「……ごめんなさい。せっかく来たのに」
口調まで幼くなったように、クリスが小さな声で言う。
「いいのよ。でも、どうして家で休まなかったの?」
「ニンナさんが楽しみにしてるかと思って。それに……台所から良い匂いがしてますから」
料理に関しては、自分でもそれなりのものだと思っている。それを楽しみにしてくれているのはありがたいが、自分の身体をまず第一に考えて欲しいものだ。
「言えばいつでも作ってあげるよ」
「そう毎日は、頼めませんから」
そこまで言って、ほんの少し気づいたことがある。身体は辛いはずなのに、クリスは少し笑っていた。もちろんはっきりと顔が見えるわけではないが、口調からもそんな印象を感じた。
「一人で、寂しかったのかい?」
「ち、違いますよ」
誰にでも覚えがあるだろう。風邪を引いたときに、寂しくて誰かに側に居て欲しいと思ったことが。否定はしたが、間違ってもいない気がした。
「はいはい。もう少し待ってなさい」
クリスはしばらくふてくされて黙っていたが、トルタが階段を降りる音がして、椅子から立ち上がった。
「えっと……じゃあ、少し休ませてもらいます」
「どうぞ。それで、晩ご飯はどうする?」
「いただけるのなら、ぜひ。それが楽しみで来たんですから」
「お待たせ。……って、はいはい、馬鹿なこと言ってないで早く行くよ」
この後に及んでまだお世辞を言っているクリスを、引っ張るようにしてトルタが寝室へと連れて行く。久しぶりに家に来たのが嬉しいのか、それとも軽口を言えるのが嬉しいのか、とにかくトルタは機嫌が良さそうだ。
クリスのことは後で様子を見に行くとして、私は自分のできることをする。どの程度悪いのかはわからないが、チーズのたっぷりと入ったラザニアは、病人の食べるご飯としてはふさわしくない。献立を変える必要がありそうだ。
すでに慣れ親しんだキッチンまで歩き、何を作ろうかと考え始めた。
きっと朝はなにも食べていないだろうクリスにリゾットを作ろうと考えていると、トルタが階下に降りて来る音がした。
「あれ? なにか作ってる?」
「消化の良い物をね。今日作ったラザニアは帰るときにでも包んであげましょう。クリスはお腹空いてるって? 聞いてきたんでしょう?」
「う……さすが鋭いね。うん、まだなにも食べてないみたい。しかも昨日からだって。食欲はないって言ってたけど、無理にでも食べさせないと」
「リゾットを作ろうと思ってるんだけど……」
「あ、うん」
「トルタ、作ってみるかい?」
「わ……私はいいよ。まだ下手だし」
「練習してるでしょ? こういうのは、大切な人のために作るのが、一番上達が早いんだよ」
「それは……そうかもしれないけど」
トルタにとって、クリスは大切な人だといっても良かった。隠すつもりもないのか、本人を目の前にしても、わかりやすい態度をとることがよくある。クリスはいつも困ったように笑ってごまかしているから、気づいていないこともないんだろう。
……アリエッタのことがあるから、私には、当人達にとってなにが最善なのかを判断することはできない。子供達の問題は、いずれ子供達自身の手で、解決しなければならないのだ。
だから私は、そっと後押しをする。それも、自分でも良いことなのか、わからないままに。ただ、三人の子供達の幸せを願っていた。
「えっと……じゃあ作ってみるね」
おずおずと、でも照れくさそうにトルタは言った。
「……ええ、そうしなさい。いつも練習しているんだから、その成果をクリスに見せてあげなさい」
「……あ、ううん。できれば、おばあちゃんが作ったってことにしてくれない?」
「どうして?」
「クリスは、私が作ったって言えば、きっと食べたがらないから」
「食べた後に教えたら?」
「それも駄目。後でやっぱり美味しくなかったっていうに決まってるから」
トルタの声に、あきらめたような笑いが混じった。クリスの認識では、たしかにそうなんだろう。アルは料理ができて、トルタは料理ができない。逆にトルタは歌が上手で、アルは下手。
物事はそんなに単純ではない。でも、そう決めつけてしまう理由も、わからなくはなかった。むしろアルとトルタこそが、そのように自分たちで決めつけ、その規範の中で成長しようとしていたんだから。
でも今、トルタは変わろうとしている。足りなかった部分を補おうと、必死に努力をしているのだ。それを素直に嬉しいと思う。
「いつかもっと上手くなってから、クリスを驚かせてあげるんだから。今はまだ、駄目なの」
「わかったよ。でも、手を抜いて作るんじゃないよ。仮にも私が作ったことになっているんだから」
「大丈夫。焦げてても、おばあちゃんのリゾットだったらクリスは文句言わないよ。それに、どうせ風邪なんだから味もわからないって」
「風邪だからこそ、細かい味に敏感なのよ。薄すぎても駄目だし、濃すぎても駄目。元気な時の料理よりも難しいっていうのに」
「……う、がんばります」
「よろしい。最後に味はみてあげるから、急いで作ってあげなさい」
「うん」
椅子に腰掛けていると、すぐに、鍋に火をかける音がした。目の前をせわしなく動いているトルタの影を目で追い、椅子に身体を委ねた。料理はいつも私の役目だったけど、そろそろ交代の時期にさしかかっているのかもしれない。
ただしトルタが学院を卒業して、この家を出ていくまでの間だけなのが、少し寂しいところだったが。
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