黄昏時には森へ近づくな。
父は、そうよく言っていた。
でも僕は時々、こうしてあてもなく森の近くを歩くことを止めなかった。山の麓にあり、地平線を見透かすことのできるこの場所に来ると、不思議と心が落ち着いた。
……いや、正確には逆なのかもしれない。普段の自分の、自覚のある冷め切った心が、どこか落ち着かないような、理解できない高揚感で満たされていくような気がする。
それが、森のせいなのか、それとも得体の知れない夕日の朱のせいなのかはわからない。
どこかの子どもが忘れていった蛍光色の安っぽいゴムボールでさえ、宝石のように輝いて見えた。
ボールを手に取り、何度か上に投げてみたが、すぐに飽きて僕は再び歩き始める。
杖を握る手に汗が滲む。家から遠く離れたこの場所に来ると、いつも身体の節々が痛む。
普通の人なら大したことのない距離だ。でも、自分でも覚えていない昔に事故で不自由になったこの足には、たった数キロのこの遠出が、一大決心をした子どもの家出のように、特別な、小旅行のようなものだった。
朝や夜には、街へ働きに出る人達の多少の車も通るが、今は閑散としている。
その道をぶらぶらと歩き、森の空気を思い切り胸に吸い込む。
――その時だった。
「……これは?」
道に、転々と赤い液体が垂れている。血……だろうか?
まだ乾ききっていない赤黒い液体が、夕日を浴びて妖しく光っている。
そして――獣の臭い。
野生の獣の放つ生臭い気配が、息づかいと共に聞こえてくるほど、生々しかった。
おそらくは、鬼――キと呼ばれる存在。
霊、妖怪、そして角の生えていると言われるいわゆる鬼を、父はまとめてそう呼んでいる。
幼い頃から、僕には見ることも、感じることもできなかった。
にもかかわらず、直感的に、僕はこれがそうなのだと理解していた。
――黄昏時には森へ近づくな。
不運にも車に轢かれた、犬や猫という可能性もあった。が、理性とは別のなにかが、否定する。
自分でも理由を見いだせないまま、その血を辿るように、足が勝手に森へと向かっていくのを止められなかった。