気づけば、約束の一時間を、少し超えてしまっていた。五分前には終わらせよう決めていたにも関わらず、それも忘れるくらいに楽しい時間だったらしい。
「あ! リセちゃん、時間、時間!」
「え? ……あ」
彼女も壁に掛けられた時計を確認して、まずそうな顔をする。彼女の家庭が厳しいのは、音楽にだけではないらしい。
「あ、あの、ありがとうございました」
「いいから、急いで。忘れ物はない?」
「大丈夫です」
私の用意はどうでも良かったから、フォルテールはそのままにして急いで旧校舎の門の前まで一緒に走る。
「あの、ここまでで大丈夫です。今日は、本当にありがとうございました」
「いいよ、そんなにお礼を言わなくても。こっちこそ感謝したいくらい」
「ラッセンさんは……もう卒業なんですよね?」
「うん、来年にはいなくなってる」
「……そうですか」
時間が無いというのに、彼女は悠長に残念そうな顔をして私を見つめた。
「ほら、時間は?」
「少しくらいなら、大丈夫です」
「ならいいけど。ほんと、今日はありがと。なんか色々悩んでたんだけど、ちょっといい気晴らしになった」
「そ、そうですか?」
「うん。これから……三年間がんばりなさいよ」
「はい。がんばります」
その言葉を聞いて、なんだか私も嬉しくなる。初めてこの学院に来たとき、私もきっと、同じような顔をしていたに違いない。
その顔がいつまでも曇らないように、となんだか女の子らしいお願いを心の中で呟いていると、リセちゃんが私と、その後ろにある旧校舎を眺めていた。
「どうかしたの?」
「この場所、他には誰も来ないんですか?」
「ああ、滅多にね。物好きな生徒が時々来るくらい。私の場合、練習したくないときとかね。考えてみれば、お気に入りの場所だったな」
感慨深げに私も旧校舎を見上げていると、彼女が最後に訊ねた。
「ここって、いつでも使っていいんですか」
「うん、学生になったらね。一人になりたいときとか、リセちゃんも使うと良いよ」
「……いつか、また一緒に演奏できたらいいですね」
「そうだね」
「約束しませんか?」
「……うん」
果たされることのない約束をして、私達は別れた。
音楽室に戻り、フォルテールをケースにしまう。そして、すぐに思い直して再びフォルテールを組み立てた。鞄の中からオリジナルの楽譜を出し、最初の一小節を弾き始める。
もし時間があったのなら、この曲を一緒にアンサンブルしても良かったと思い、やっぱりそれも恥ずかしいからやめておいて良かったとも思った。
気分は驚くほど晴れやかだ。リセちゃんのような人材が、ゆくゆくはこの国の音楽界を担っていくんだろう。
私は多分、彼女と一緒に演奏することはできないと思う。さっきしたばかりの悪意のない約束は、守れそうにない。それほどまでにプロの世界は厳しかったし、その中で残れる自信もなかった。
ただ、彼女にはその資質もあるし、きっとそうなるだろう。
そしてわずかに沸いた嫉妬心も、彼女の笑顔を思い浮かべるだけですぐに消えていった。
私は止まっていた手をもう一度動かして、フォルテールの練習を再び始めた。例え結果がどのようになろうとも、とにかく卒業演奏だけはがんばってみようと思った。
いつか誰かに、ここで過ごした時間のことを――この時のことを誇れるように。少なくとも、自分だけには誇れますように、と。
End
著:Q'tron
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